インド人の議論好きは有名だ。堀田善衛の「インドで考えたこと」には、デリーからムンバイへの長距離列車の中で、寝ている間を除いて同室のアメリカ人と日本人(堀田氏)を相手に論じづめだったというインド人学生が出てくる。インド代表は国連総会で9時間もスピーチしたというレコードをもっているそうだ。国際会議の議長は、インド人を黙らせて、日本人を話させることができれば大成功だと言われる。
スピーチの練習では、1.作文、2.発音、3.質疑応答という、個人指導が必要なため授業ではおろそかにされがちな項目が、みっちりマンツーマンで指導できるのがよいところだ。質問に対する応答の練習は、学生たちは「想定問答集」を作るのが目的だと思っているが、もちろんそれも目的のひとつではあるのだけども、教師側の考えはちょっと違う。ディベート練習が第一のねらいだ。学生は、自分のスピーチに対する質問だから、真剣に答えを考える。そこがつけめである。根掘り葉掘り、揚げ足取りのような質問、こんなの絶対にされないよという仮定に仮定を重ねたような質問や哲学的な問いかけまで、学生にぶつける。大会では、壇上で、誰も助けてくれないところで、ひとりでそれに立ち向かわなければならないわけだから、彼らは必死に考える。こんないい練習はない。本番で出されるはずのない質問に答えさせることこそ、この練習の眼目と言っていい。なに、それだけ練習したって、本番では失敗するのだけど。それも経験、とうそぶき、教師は翌年も同じことをする。
トルコ人やロシア人の学生が非常に苦労するここのところで、インド人はかなり泰然としている。彼らとて答えるのに苦労はするが(そりゃそうだよ、外国語だもの)、ひるんだふうがないのだ。質問が理解できなくても、自分が理解できた隻言半句をとらえて、とうとうと答える。見上げたものである。
”- ところかわれば・弁論篇 - 石陽消息 (via twinleaves)